| Top | Gallery | G-Odyssey | What's new | Blog | Stories | Book | Link | Contact |


00

電気が生む欲望
論座連載 第2回(2008年5月号)


 戦後訪れた高度経済成長期、日本政府が「援助」という名目で力を入れた海外支援のひとつにダム建設がある。自然災害や水不足に苦しんでいた発展途上国からの要望でもあったダム建設により、治水・利水がコントロールされ、地元住人の安全が担保されるようになった。だがより大きな影響は、ダムが作り出した電力により、辺境にあっても「電気が使える」環境が生まれたこと。機会が与えられた途上国の人々は、以降、ラジオ、テレビ、冷蔵庫などの電化製品を我先に買い求めるようになった。当時、そうした品々を主に作っていた国が日本だから、ダム建設から始まった「マッチ・ポンプ」経済により、日本企業は売り上げを伸ばし、社会全体として先進国の仲間入りを果たすことができたのである。

(現地の人々からの強い要望があったことは確かだから、ここで日本政府が推し進めたダム建設の是非を問うのはフェアーではない。それだけでなく、こうしてパソコンで原稿を書き進める今、私自身、電気の恩恵を十分に享受しているわけで、この現象の是非を問ういかなる資格もない。試みたいのはただ「電気」の本質を問う思索である)

 さて、戦後日本で街頭テレビが流行ったように、80年代以降、電気が届いた世界の辺境では、「ビデオ屋」が人気を博していた。大抵は出稼ぎ者が貯めたお金でテレビとビデオデッキを買い、家の前に置いただけのもの。村人からジュース一杯ほどの小銭をとった上で、B級のハリウッド映画か、カンフー映画を見せる簡易劇場だった。群がった人々は、映像からモノが溢れる「きらびやかな」先進国の生活を目にするようになった。画像の中に浮かび上がった都市生活は、“退屈な”田舎暮らしとは違い、モノやチャンスが溢れた刺激的な場所であった。物理エネルギーとしての電気は、結果的に先進国の都市文化をも地球の隅々にまで運び続けた。

 映像を目にしたことで夢を描いた若者たちは、田舎を捨て、都市に流れ込んだ。だが、都市とは貨幣経済が根幹にまで浸透した社会だ。辺境出身者に、都会で生活を整えるだけの資金があることは稀で、多くは廃材や手作りのレンガで無許可の「家」を自前で作り、留まり続けた。80年代以降、世界各地で都市周辺スラムが爆発的に拡大し続けた、これが背景である。電気によって生み出された「欲望」が、結果的に伝統的な生活を破壊し、同時に都市周辺のスラムを拡大させたのだ。そして経済がグローバル化した今、この図式は途上国における田舎と都市の関係だけでなく、途上国と先進国の関係でも同様なのだ。途上国から先進国に人々が流入する理由の一端は、紛れもなく電気から始まった欲望の拡大にある。

 「電気」をキーワードにすると、核問題としてしか語られないチェルノブイリ原発事故も違った見方ができるだろう。忘れられがちだが、そもそもチェルノブイリ原発は発電のための施設だ。そしてチェルノブイリで使われた不安定な「黒鉛型(RBMK)」原子炉を旧ソ連がいくつも作った理由は、極言すれば敵対する西側対策なのだ。この型の原発を旧ソ連が急造した時期は、社会主義体制に陰りが見え、同時に西側情報が東側にも、様々な回路を通じて届くようになっていた頃。当時、東の社会では、西側との間に生まれた格差に不満が広がっていた。不満は反乱の素地となり、為政者の地位と体制の維持を危うくした。不満を抑えるために、電力の緊急な供給が必要となっていたわけである。

 電気を手にしたことで芽生えた人々の欲望。だが、責任の所在が電気というエネルギーだけにあるわけではない。電気を「道」に、それだけでなく「利便性」「刺激」「お金」などに置き換えても同じことが説明できるからだ。水が高きから低きに流れるように、一度生まれた小さな欲望は、後に際限なく膨張を続ける。その結果、今、自然は破壊され、気温は上昇し、欲望の主体である人間の存在をも危うくしているのだ。問題の本質は肥大化する人間の欲望を「どう手なずけるのか」だろう。


2008 Kazuma Momoi. All Rights Reserved.